競創と共創
私たちは互いに競いあい、共に力を合わせることの両立をめざしてきました。
同じ空間と時間を共有することで、創造という個人的作業を解放し、
個々のアイデアを関連づけ、さらに発展させる環境。
この「創造の場」こそ、独創的なコンセプトと、多様な表現を生み出す力の源となっています。
HISTORYではTHE DESIGN ASSOCIATES設立の基盤となった
代表・佐藤の仕事をアーカイブとして掲載しています。
History
当時時代の最先端を歩んでいたアメリカのデザインに触発され、大学の恩師のアドバイスもあり1970年に渡米。トランスポーテーション・デザインで著名なアートセンター・カレッジ・オブ・デザインに入学しました。
卒業後サンフランシスコのランドー・アソシエイツに就職。当時ランドーはクラマス号というフェリーボートをオフィスとし、日本企業のプロジェクトも担当している大きなデザイン会社でした。ランドーでは「THAI AIR」や「US AIR」などの航空会社のプロジェクトに参加し、そのダイナミックなデザインの展開に魅了されました。




Pier5(第五埠頭)奥に本社スタジオのフェリーボートKlamathが見える。ベンツのカブリオレはランドーCEOの愛車。バンパーがへこんでる。
2.クラマス船内のデスク
航空会社のロゴデザインが進行中。
社内ミーティングの初回は機体のグラフィックが評価基準となった。
3.クラマス船内の資料室
プレゼンテーションで使われたエアクラフトの
模型やパッケージなど。
4.クラマスの甲板にてブレークタイム
およそ100人のスタッフには数人のアジア系社員もいた。
5.裸足の受付係
誰もがカジュアルなカルフォルニア・スタイル。




後列右から2番目がソウル・バス氏。前列左から2番目が佐藤。
7.エントランス
サンセット通りに面し、グローマンズ・チャイニーズ・シアターから2ブロックのロケーションだった。
8.ATTテレフォンブック表紙のデザインの撮影を
セットアップしている同僚のスティーブ・バーンスタイン
9.社内のデスクにて
今や世の中から消え去ったPANTONEのオーバーレイが
デスクに散らかっている。

エキサイティングな航空会社のプロジェクト
フロンティア航空 1975年
その後、ソール・バス・アンド・アソシエイツに移籍。コロラド州の航空会社「フロンティア航空」のプロジェクトでデザインが採用されました。プレゼンテーションはまずカタチを見せるため、PCもない時代です、モノクロの手書きのデザインを数百案ほど壁に貼ってクライアントに提示するのです。バス氏は短編アニメーショ「WHY MAN CREATES」でオスカーを得たほどの才人で、プレゼンテーションのストーリー作りは見事でした。(因みにオフィスに飾ってあるオスカー像を持たせてもらいましたが、結構重量感がありました)。
飛翔する「F」 をイメージしたこのロゴはデザイン誌「IDEA」のソウル・バス特集号にも掲載されました。
1976年帰国する直前、ニューヨークのレイモンド・ロウィのオフィスでフリーランスのデザイナーとして働く機会を得ました。当時ロウィ氏は90歳を超えていましたが、まだお元気のようでした。お目にかかることはできませんでしたが、米国インダストリアル・デザイナーの父と呼ばれた氏のオフィスで、短期間でしたが働くことができたのは良い思い出です。当時のレートは1ドル=300円、帰国の航空運賃は簡単に稼げました。
私の米国体験はさほど長い期間ではありませんでしたが、それぞれ個性的なトップやディレクターのもとで経験を積めたことは、自らのオフィスを立ち上げるに際して貴重な経験となりました。

沖縄石油基地 1976年
ソウル・バス在籍中に知り合った日本の方から紹介があり、手掛けたのが「沖縄石油基地」のロゴのデザインです。世界中が石油危機を経験し、丸善石油と三菱石油は合同で沖縄に石油備蓄基地を建設しました。テーマカラーは明るい南の海で、デザインは日本中にディストリビュート(配布)される石油の流れを表しています。丸善の「丸」と三菱の「三」がロゴの隠された意味合いです。

日本におけるスポーツ・マーチャンダイジング・
ビジネスの揺籃期だったペレの試合
ペレ サヨナラゲーム イン ジャパン 1977年
サッカーの神様と呼ばれたペレの引退試合を電通スポーツ文化事業局(当時)が主催したことが日本でのスポーツイベント興業のはしりであり、ロゴが商品に展開されるマーチャンダイジング・ビジネスの最初の成功例となりました。試合はファンの若者達の熱気にあふれ、フリーキックが決まった時のペレの喜ぶ姿にすべての観客が感動しました。

ペレ サヨナラゲームイン ジャパン(1977)
植村直己北極点単独走行 1978年
冒険家植村氏を一躍有名にした犬ぞりによる北極点単独走行のロゴです。限りなく広がる氷の平原をブルーのグラデーションラインで表現し、孤独な単独走行を強調。募金活動に活用され犬ぞりの帆にもプリントされました。マッキンリーに消息を絶った氏のはにかむような笑顔がいつまでも記憶に残っています。

プロバスケットボール・オールスター 1978年
電通は東海岸と西海岸のトッププロ選手のオールスター対抗試合を代々木第一体育館で開催、在日アメリカ人を熱狂させました。ロゴはバスケットボールのブラウンを米国国旗色のレッドに重ね、ブラウンとブルーをテーマカラーにしたデザインです。試合ではレイカーズのスター選手アブドゥル・ジャバーが “スカイフック”を決めた時、当時のFar East Network(FEN)の実況中継は最高潮に盛り上がり、アメリカでのバスケットボール人気を肌で感じました。

長い歴史を持つスポーツイベントをデザインする
全英オープンゴルフ 1978年
世界最古のゴルフトーナメント「全英オープンゴルフ」にはロゴがなく、電通からの依頼を受けてデザインすることになりました。当時全英オープンに関する資料は少なく、英国の紋章を参考にトロフィーをモチーフとしたデザインを開発しました。後にミズノ株式会社からの依頼で全英オープンのタータンチェックをデザインし、現在もスコットランド タータン ワールド レジスターに登録されています。







セイコー・スーパー・テニス 1980年
テニスブーム華やかりし頃、多くの企業がテニストーナメントのスポンサーとなりました。ポスター、チケット、カタログ、会場のサイン類からテニスコートの配色まで担当し、テニスフアンには最高のシーズンでした。

パンフレット(1980)とポスター(1982)
ウィンブルドン 1979年
世界中で放映され、もっとも歴史あるテニストーナメント「ウィンブルドン」にはロゴは存在せず、これも電通の依頼でデザインの開発を始めました。王室に関わる高貴な「ロイヤル・ブルー」と芝コートの「グラスグリーン」をテーマカラーとし「W」のデザインと「クロス・ラケット」の2つデのザインが採用されました。当初マーチャンダイジングに展開されたのは「W」のみとなり、多くのテニス用具やファッションに展開されました。後に東京で開催されたのフェデレーションカップの会場で、英国のトッププレーヤー、バージニア・ウエイドさんに「Oh, you are the designer of Flying W!(あなたがフライングWのデザイナーなのね)」と言われ、フライングWと呼ばれていることを知り、誇らしい気持ちになりました。もう一方の「クロス・ラケット」のデザインもマーチャンダイジングを開始、このラケットのストリングス(ガット)は斜めに張ってあります。これはウィンブルドントーナメントが初めて開催された時代に存在したガットの張り方です。
ロゴが様々な商品にマーチャンダイズされた当初は「クロスラケット」より+別撮りカタログ写真「フライイング W 」の露出度が高かった。商標登録されやすかったロゴが優先されたと推察している。






仲間と共に創り、競い合うデザイン会社
アメリカのサンタモニカにあるThe Company という会社にフリーで働いたことがありました。カンパニーには仲間という意味と会社という意味があります。同じような意味合いのアソシエイツは仲間が集まって活動する自分の会社にふさわしいと感じ、個人名ではなく“THE DESIGN ASSOCIATES”という社名にしました。現在では創造の理念「共創と競創」に集約されています。
1980年12月
いつか自分の会社を立ち上げると決めていましたが、
米国での経歴からパッケージデザインと
ブランディングの会社をスタートしました。

